【産土(うぶすな)信仰】

人は生まれてから死ぬまで産土の神にはぐくまれて生きている

1.産土信仰とは何か

『結びの心』の『むすび』とは産霊(むすび)、すなわち万物を生成する大きな神霊の力のことです。この産霊(むすび)の力は、私たち現代人の中にも脈々と受け継がれているものなのです。産土というのは、この万物を生成する産霊(むすび)の力の源です。私たちが日々暮らしているこの大地そのものを言うのであり、また、産土神とは私たちを生み、はぐくんでくれている最も大切な神霊を言うのです。

産土の「ウブ」は「産む」、あるいは、「生む」の意であり「産須那」、「産須根」と言うこともあります。私たちは、自分達の生命の流れ出でた郷土そのものの神霊であり、万物を生成する根本の神であるこの産土神を今もう一度見直してみる必要があると思います。

2.産土神と産霊(むすび)のはたらきについて

時代は変わっても、人間は大地に生まれ、そして大地に生き、ついには大地に死するものであることに変わりはありません。この大地こそ私たちを生み成す産土(うぶすな)なのです。古代の人は、物には全て神霊が宿ると考えていました。そして、この自分達を生み、はぐくむ大地を神霊として拝め、「産土神」と言ったのです。

産土神は、私達の生命を生み、はぐくむ大いなる神霊です。この産土補がさらに大きく集合すると、「国魂(くにたま)神」となります。これは人間の一つ一つの細胞が独立して存在し、その集合体として一人の人間がいるという姿にも似ています。そして、全日本諸島の総国土神として、「大国魂の神」があるのです。

このように私たちは産土神にはぐくまれているのです。そして大きく見れば、それは国魂神、さらには大国魂の神にはぐくまれて生きているともいえるのです。

もちろん日本のみならず諸外国にもひとしく国魂の神、そして産土の神はおられます。また、地球そのものも、各国のあらゆる国魂の総合体であり、大神霊体であると考えられるのです。海には海を分けもつ神霊がいることも、以上のことから当然理解していただけると思います。

こうしてみてくると、この地球が一つの大きな神霊体であるとしますと、太陽系の惑星はみな同じように神霊体であるということになり、太陽そのものも大いなる神霊体であることが分かってきます。さらに、太陽系宇宙そのもの、ひいては銀河系、さらには大宇宙そのものが神霊体であるということがここに示されるわけです。私達日本人は、このように宇宙の哲理を古代より直観的に理解していたのであり、これは神道において大宇宙そのものを天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とした記紀の記述からも理解されるわけです。そして造化三神以下の神々がまさに「産霊(むすび)」の生成力により次々と誕生したのです。

西欧の思想では、動植物には生命を認めますが、その他のものには生命を認めません。この考え方は、天地のあらゆるものが産土神、国魂神、大国魂神としての神霊体
であるという日本古来の考え方とかなり相違があるといわざるをえません。現代人の日本人は、万物に神霊が宿るという、この考え方を忘れ去ろうとしています。しかし、このような産土信仰が現代とともに簿れてゆこうとも、産土神の私達人間に対する加護には決して変わりはないのです。ただ、私達現代人の方で、素直な気持ちで本質を見極める目を失ってしまったにすぎないのだと思います。

私達は、時々氏神様ということを言いますが、この氏神様と産土神の関係について、少し触れておきましょう。今日では、その土地の鎮守の社のことを氏神と言う場合もあるようです。しかし、氏神とは本来血統を同じくする者が共同でお祭り申し上げる先祖神を指します。そして、今日氏神様とに言われている社は、本来は鎮守様、すなわち産土神の社であり、氏神様はより人間に近い人格神として、産土神というより大きな神霊の懐で祭られていると言ってよいと思います。

また、産土神の御神徳は、先に述べたように万物を生み成せる大いなる産霊(むすび)の力であります。したがって、産土神は動植物の区別なく、そこに産霊(むすび)の力を与えます。草や木が成長し、鳥や動物が育っていくのも、全てこの産土神の奇霊(くしび)なる産霊(むすび)の力によるものであることを忘れてはならないのです。

 

3.産土神と人間の霊魂について

日本では霊魂のことをたましいといいます。「たま」は、神道においては「四魂」に分かれると言います。元来は渾然と一体になっているのですが、働きの面から言うと四つに分かれるのです。

まず人間の肉体に近い順から、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎたま)、幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)に分かれています。荒魂は物事を現わし為す作用をもち、和魂は物事をまとめ和合させる作用をもち、幸魂は幸いと繁栄をもたらす作用があり、奇魂は人の神秘なる力を引き出す作用があります。

そして、この四魂を統率するものとして直霊(なおひ)があり、これが「まましひ」の「ひ」なのです。人は、この直霊により産土の神と堅く結びつけられているのです。そしてまた、人が神の分魂(わけみたま)を持つといわれるゆえんも、この直霊があるからであり、それゆえに人とは霊止(ひと)、つまり霊(ひ)の止まれるもの、止まるものといわれるのであります。よって人は、神の道を知ることができ、また神心も持っことができるのです。人間と産土神とは、このように一霊四魂の一霊、すなわち直霊により堅く結びついており、この節理は時代は変わっても世の続く限り存在する永遠の真理なのであります。

人は時として産土神にはぐくまれて生きていることを忘れることがあります。このことを一霊四魂の面から見てゆきますと、荒魂が乱れると、人と人の間で争いが起こり、和魂が乱れると善悪の判斯と倫理感に異常をきたし、幸魂が乱れると社会への反逆心が生じ、直霊のレベルが乱れると霊魂そのものが禍津霊に変化してしまいます。

このようなことのないように、私たちはぜひ産土神との結びつきを日頃から強くしておくことが大切だと思います。


4.産土の神社と産土神

私も常日頃から、自分が総代をしている千葉県柏市の増尾にある廣幡八幡宮へ努めて詣でるようにしています。廣幡八幡宮の鳥居を一歩くぐって石畳で整備された参道を一歩一歩踏みしめてゆくと、目には見えませんが、実感として身も心も次第に清まっていくのが感じられるのです。特に、廣幡八幡宮の参道は社殿までかなりの距離があり、そこを歩いていると、私は知らず知らずのうちに一種の統一状態に入っていくのが自分でも分かります。

参道の周囲におい繁る草木の息吹も自然と感じられ、ああ自分は産土神にこうやって守られて生きているのだと、まさに膚で感じることができるのです。

本殿の前で日々の守りに対する感謝と、家族の平穏無事を祈る時、まさに心身清まって自らの全身全霊に産土神の稜威(みいず)を感じないわけにはいきません。

私達は、普段何気なく神社の鳥居をくぐっていますが、鳥居というものの持つ意味についても知っておいていただきたいと思うのです。つまり、神社の参道入口に立つ門であるこの鳥居は、ここから神域であることを人間に示すために立てられているだけでなく、神霊的に見ても、神界と現界を分ける境界を示すものでもあるのです。それゆえ鳥居は、別名「厳の華表」(いづのとりゐ)とも言うのです。厳(いづ)とは斎(い)み清められたという意味、厳かな威光という意味です。この鳥居の所は、御祭神にお仕えする神々(比古神)がそこで守っておられると言われており、その神のお力でまず穢れを祓うのです。

ここで、古来人々が神社に詣でる際に行っていた手順について記しておきましょう。お宮に参るには、本来準備を欠くことはできないのです。まず、家庭においては努めて身を慎み、心身ともに穏やかで平安であるように保ちます。これを「斎戒」といいます。あまり世俗的なことに触れて心を乱したり、不浄の行為は慎むことが必要です。そのような態度で身をできる限り清まった状態にして、翌日のお参りになります。

神社の神域というものは産土神の御神徳によって清浄に清められた場所です。したがって、私達がひとたびそこへ足を踏み入れますと、自分自身で自覚しなかった汚れや穢れが、鳥居より拝殿に至る参道を心安らかにして歩いて行くことにより、あたかも鎧やかぶとを脱ぎ棄てるように自分から離れていくのであります。

そして、このようにして産土神の御神徳に泡かれて拝殿に至った時には、その身は真に清浄なものになっており、神霊との対面にふさわしい身となっているのです。

また、拝殿の手前には手水舎があります。これは参道を通ってきた者が行なう最後の禊ぎの行であります。ここで全身全霊でわが身を清めるつもりで手を洗い、そして口をすすぐことが大切です。手と口を清めるという形式を通して、自らの裡に残った穢れを最後まで取り除いてしまおうとすることに、その意味があります。

そしてお賽銭を撒きます。これは、人間にとって物欲は棄て難いものですが、その中でも執着の最もあるお金を神へ差し出すことで、自らの裡にあるわだかまりのない心を今一度、自ら確認するための行為なのですその意味で、この行為も心を清めるためのものなのです。決して神へのお供えものではないことを知っておいていただきたいと思います。


5.産土神と人の生死―人は死ぬと産土神のもとへ帰ってゆく

今まで見てきましたように、人は産土神の大いなる産霊の力によって日々はぐくまれています。そして、人の誕生もまた、産土神の産霊の力によってなされる神人一体の行為であり儀式であるのです。

神社の参道はよく女性の産道と比較されます。人は鳥居をくぐり、参道を通っていくうちに、あたかかも体内の産道へ再び帰りゆくような気持ちになります。産土神の大いなる御神威は、まさに母の産みなす力であり、人は産道に対比される参道を通って、自ら元津宮たる産土神の元に帰ってゆくのです。産土神のまします産土社は、この意味で人間の母なる元津神たる子宮の如きものとも言えましょう。

さて、人は死ぬとどこへ行くのか、という人類の歴史の上で最も困難な問題が、ここにあります。人は産土神の奇霊なる産霊の生成力によって、この世に神の分魂(わけみたま)をいただいて生を過ごすわけであります。それゆえ、生が終わり、死を迎えた時、再び人の魂は、その元津宮たる産土神の下に帰幽することを知っておいていただきたいと思います。そして、私達の肉体は元の大地へと帰り、元津宮たる産土神のもとへ帰った魂は、祖霊や背後の霊のお導きにより、その魂の浄化向上の旅へと出発するのです。

私達現世を生きる者は、正しい心の状態、つまり神に真向う心としての神心をもって、産土神をはじめ祖霊、背後の指導霊の守護を確認し、現界を離れて、いかような審判を受けようとも、それを安んじて受けられるように日頃から心がけておかなければならないのです。